フツウの小学生にはそもそもムリゲーである

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こんにちは。中学受験終了組ののびこ母です。
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。

今回から「中学受験は親子の受験」について終了組母が思うことを書いていきます。
まずは大前提として「中受のレベルが普通の小学生にはそもそもムリゲーなんだよ」と世に訴えたいと思います。

演説する女性のイラスト

 

 

「中学受験とはフツウの小学生にはムリなレベルのことをやらせるものである」

中学受験は親子の受験」という言葉は受験生親にとっては耳タコですが、世間一般的には「受験するのは子どもでしょ。親がはりきってどうするの。」という声は根強くあるように思います。スポーツ選手の「親子鷹」系は美談として語られるのに、親子で【勉強】を頑張ることに冷めた目があるのは何故なのでしょう。スポーツよりも勉強界の方がはるかに席数は多いと思うのに。

で、そういう時、私は「まずテキストを見てみようか」と心の中でつぶやきます。「それね、高校受験じゃなくて小学生がやるテキストだからね」と。

「中学受験とはフツウの小学生にはムリなレベルのことをやらせるものである」

「中学受験は親子の受験」の是非を問う前に、ここを大前提にしないとぜったいに分かり合えない。
この場合の「フツウ」というのは中学受験界における普通。「小学校のテストではほぼ100点である」という意味です。

nobikotohahanonasebanarublog.com

もし、国や学者のおエライさんたちが今の小学校の勉強を発達段階に見合った【相応】のものであるとしているならば、今の中学受験のレベルは小学生の「能力を引き出す」とか「成長を促す」とかいうワードで対応可能な範疇なのか、甚だ疑問です。能力が引き出される前に、成長する前に、つぶれちゃうよと(今の小学校の学習についての疑問や議論は横に置いておく)。

「今の中学受験の塾の授業は親のサポートなしに子がひとりで理解できるものなのか」

この流れを作った誰か知らないけれど、エライ人に問うてみたい。
小学校から帰ってきて急いで塾へ向かった子どもたちが何十分も「わからない授業」を座って聞いている光景を想像すると胸が痛くなりませんか。

もちろん、「地頭」うんぬんの個人レベルの話をされても困ります。今の中学受験の層が広く厚くなっていることを考えると、「自力で」塾の授業を理解できるレベルの子たちばかりのはずがないのだから。

 

 

中学受験はどこまでいくのか

中学受験についての塾の説明でしばしば耳にするのがこの言葉。
「前は〇年生で出てきた単元なんですけど、今は前倒しで・・・」
「前は難関校で出た問題なんですけど、今は中堅校で・・・」
さらには、ご自身が中学受験を経験されたという塾の先生は「自分の頃はこんなにむずかしくなかったんですけどね」とさらっとおっしゃったりもする。うん。その時代に戻そうか。

中学受験が終わってみると、塾のテキストはまるでクレーマーをおそれてどんどん増えていく「個人情報保護」の同意事項のようだと思う。
「これも出る<かも>しれない」「これもやっておいた方がいい<かも>しれない」
リスク管理でどんどん内容を付け足す大人たちのツケを子どもたちが払わされている。あれもこれもいらなかったと思えるテキストのページはたくさんある。いらなかったと思う講習もある。

一方で。
中学受験の勉強を頑張ったからといって、中高一貫校の勉強が楽というわけでもない。やはり中高一貫校の進度と深度を担保するものとして、あのレベルは必要なのだろうか。
わからない。
けれどやっぱり、今の中学受験は過酷すぎると思う。

魔の無限ループで中学受験のレベルは上がり続ける

そう昔でもない昔-塾の先生方が小学生だった頃-の中学受験でも子たちは十分優秀だったろうに、何故今こんなにもレベルが上がってしまったのか。
それは「親が頑張ってしまうから」。「頑張らざるを得なくなっているから」。それが「過熱」と呼ばれているものの正体ではないかと思う。

のびこと勉強している間、「親子で頑張る→受験生のレベルが上がる→差がつかなくなる→中学校側が問題を難しくする→塾が対応する→親子で頑張る→親子でさらに頑張る→受験生のレベルがさらに上がる・・・」という魔の無限ループに自分が取り込まれていると感じることがありました。
大人がサポートするほどにこのループがさらに過酷なものになるのに、自分がそれに加担している。こんなにもアップアップで溺れそうだというのに。

どこまで中学受験のレベルは上がっていくのか。
耐久レースのようであり、チキンレースのようでもある。
ふるいにかけられて、「こわれない親子」はどれだけ残るのか。
子の心がこわれるラインを親は見誤らずにすむのか。
どこまでいけば、この魔の無限ループは終わるのか。

 

 

まとめ

「過熱する中学受験は今年も収まる気配を見せないようだ」と中学受験に関する記事が煽ってきます。子どもの数は減っているのに、中学受験する子の数は増えている。来年度入試は過去最高だった昨年を上回る難度になるかもしれないという声さえある。

今回の記事では
・中学受験とはフツウの小学生にはムリなレベルのことをやらせるものである。
・魔の無限ループにはまっている。
ということをのびこ母なりに考えてみました。

大手塾のカリキュラムはベルトコンベア式で、日々こなしていけば「ゴール」にたどりつけるようになってはいます。
のびこも私もどうにかゴールには辿り着いたけれど、それは危うい綱渡りをしているような日々でもありました。
中学受験のベルトコンベアは乗り続けることも苦しいけれど、降りることを選択するのもむずかしい。

我が家の経験談がどなたかのお役に立てることがあるのかな。わかりませんが、書き続けていこうと思います。

 

 

完全な余談-時間のある方だけお付き合いください-

ひょっとしてレアな読者の方がいらしたら「長文書きののびこ母にしてはこのところちょっとライトな記事が続いているんじゃない?」と思われていたかもしれません。
そうなのです。
のびこ母は悩んでいる時、記事が書けなくなります。ニッチにしてアツく、真剣で、悩んでいる人も多いであろうこの「中学受験」というカテゴリーであればなおのこと。

「今の学校に満足している」→YES
「中学受験をしてよかったと思っている」→YES

けれど、「中学受験ってした方がいい?」と問われると答えに窮してしまう。考えて迷って「うちはしてよかったと思うけど大変だったよ~」とだけ返します。

ブログを書くにあたり、当時の資料や走り書きを目にして苦しくなりました。
今読むと、のびこの「ママ、もう限界だよ」の声が聞こえてくるようです。
でも当時は「もうすこし、もうすこし」とギリギリを探り続けて、撤退することを選ばなかった。のびこのこわれそうな心を祈るようにそっと両手で包みながら、ごまかしごまかし来たように思う。
そこで踏ん張ったから今があるともいえるけれど、すべては結果論に過ぎないと揺れる思いがあります。

今でもあの時の苦しさを思い出せる。ここまでやるべきなのかという苦しさと葛藤を。
やったからこそ、今がある。ならどこまでやるのが正解だったのか。

「してよかった」と思うことはあの頃の自分を正当化する作業なのかもしれないとウジウジしたりもしましたが、だけど今、親も子も「別になにも困っていないじゃない」と得意の開き直り。
高みを目指して精いっぱいやったことは無駄ではなかった。
だから、戻れない過去を仮定法で振り返るのはやめました。

ただやっぱり「中学受験は行き過ぎていませんか」と訴えたいのです。ブログ界の片隅からでも。
というわけで「中学受験は親子の受験」について考えるささやかな連載をスタートすることにしました。
ちなみに「中学受験が過酷になるのは親が欲張るからだろ」ってツッコみもあるでしょうが、ループしちゃうからまた後で。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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