中学受験終了組ののびこ母です。
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。
「中学受験は親子の受験」で親が頑張ることによる弊害のひとつとして「塾のクラスのミスマッチ問題」を書いてきました。
今回は「子に見返りを求めてしまいがち問題」について。
中学受験を乗り切る親の極意
あんなにしてやったのに
『のに』がつくと
ぐちが出るみつを
何故か実家のトイレにありがちな相田みつをさん。
もうね。中学受験を乗り切る親の極意はこれにつきると思う。
のびこ母体感調べで100万回唱えました。「100万回ダメでも100万1回目は」とドリカムの名曲「何度でも」の上をいく心意気で唱えました。
あんなに教えたのに、どうしてできなかったの。
あんなに言ったのに、どうしてまたまちがえたの。
あんなにやったのに、どうして・・・・・。
「『のに』がつくと愚痴になるよ。疑問形は『詰問』になるよ。」
そう自覚するだけでも、少しは自分にブレーキがかかります。
コストに見合うだけの「対価」を求める気持ち
さらにやっかいなのが、「のに」に続く愚痴の底には「相手に対価。見返りを求める気持ち」があること。この場合の「相手」はもちろん子。「中学受験は親子受験」のモーレツに厄介なところ。
「子育てに見返りを求めてはいけない」とえらい人たちが言います。
「生まれてきてくれただけで感謝」。そう思える親でありたいと願う。
でも、中学受験はそんな親の心を簡単に乱します。
金銭的な負担に加えて、物理的精神的時間的負担。
あまりにも親の負担が大きすぎて、無私の境地を目指す道が険しすぎる。
だって、自分が負ったコストに見合うだけの「対価」を求めてしまうのは人間の常。
中学受験における「対価」は頻回なテストの成績、最終的には「【ここ】には受かってほしい」に集約されていく。
しかも頼まれてもいないのにね
ある日、とある場所で。
「あ、ちょうどいい!ラッキー!」と、ドアが開いていたエレベーターに乗った瞬間、先に乗っていらした方に舌打ちされました。誰かが乗ろうとしている気配を察して、「開」を押して待っていてくださったのに、私がたらたらしているかして、その方の「待ち時間」が想定より長かったのでしょう。
そうは思いますが、私にしてみたらいきなり流れ弾に当たった気分。「別に頼んでないし。先に行ってもらった方がよかった」と心の中でぶうぶう。
でも相手の方は「よかれと思って」してくれたこと。こういうことって、日常生活でホントによくある。
で、中学受験に置き換えて、自分にツッコミを入れてみたのです。
「おまえは『よい成績をとりたいから助けて』とのびこに頼まれたのか」と。
うちの場合、答えはNOです。
すべては「私がよかれと思ってやっていること」。
もちろん私は子の将来のためにあれこれ考えてしていることではあるけれど、将来的には確かに親に感謝もしてくれるかもだけど、小学生ののびこにしたら「別に頼んでないし」とぶうたれたくなってもムリはない。
と思った次の日には、また相田みつをさんを唱える羽目になっているんだけど。
親だってにんげんだもの
自分の行為-しかも頼まれてもいない-に対して相手に「見返り」を求めようとする人間の欲はどうして何度モグラたたきしても消えないのかな。
「親が欲張るからだよ」の声も聞こえてきそうですが、親だって仏でも仙人でもないからね。多大な労力と時間と費用に相応するリターンを求めたくなるでしょうよ。
ここでふたたび。
(親だって)
みつを
私にとって中学受験の3年間は欲深な自分をどうにかこうにか退治しようとして、でも退治しきれず、反省するを繰り返す日々でした。
受験が終わったその時、心の底の底から<どんな>結果でも受け入れることが私にできるだろうかと常に自分に問うていました。
そして、のびこは、私がどう言葉を繕おうが心の底に「あんなに頑張ったのに・・・」が残っていれば、それを読み取ってしまう子だろうと思いました。
それは中学受験の合否よりもっと深刻に私たち親子の関係に関わってしまうだろうと、それがこわかった。ずっと。
そんな私も。
がんばってがんばってがんばり続けるのびこの姿に「もう十分だよ。十分がんばったよ。入学試験を受けられたらもう十分だよ。」と祈るような本当の気持ちで思えた自分に少しはましな人間になれた気がした1月直前期でした。
中学入試、奥が深いです。むずかしいです。
親も「自分」をむき出しにされる心地がする。
自分がどんな人間なのか、どんな親なのか、向き合うことを余儀なくされる。
修行です。
過去記事 ♦中学受験は親子の受験
【その意味】
其の参 終了親が考える中学受験の公式
其の四 親子の二人三脚で偏差値60まで上げられる。但し超難関は海の孤島。
【その弊害】